山本五十六の経歴や功績が凄いが身長が低い?やってみせの意味と家系図や子孫も気になる!

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アメリカのカリフォルニア州にある
パロアルトの中学校の校名変更を巡って
候補の一つである日系2世フレッド・ヤマモト氏の
名前について保護者の一部が
真珠湾を攻撃した山本五十六を連想させるとして
話題になっています。

そこで、山本五十六とはどんな人物だったのか?
経歴や功績、身長が低かった理由や
「やってみせ」の意味と家系図や子孫についても
調べてみました!

山本五十六のプロフィール・経歴


名前:山本五十六(やまもと いそろく)
生年月日:1884年4月4日
死没:1943年4月18日(59歳没)
生まれ:新潟県 長岡市
配偶者:三橋礼子 (1918年 – 1943年)
埋葬:東京都 多磨霊園
学歴:ハーバード大学 (1919年~1921年)、
海軍兵学校 (1904年卒)
軍歴:1901年~1943年
所属組織:大日本帝国海軍の旗 大日本帝国海軍
最終階級:元帥海軍大将

山本五十六さんは、日本の海軍軍人で
第26、27代連合艦隊にて司令長官を務めた人物です。

最終階級は元帥海軍大将であり、
最終的に前線視察の際にソロモン諸島の
ブーゲンビル島上空で戦死したとされています。

山本五十六さん明治17年に
新潟県で旧越後長岡藩士であった
高野貞吉さんの六男として生まれます。

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なんと当時父親が56歳だったことから
五十六という名前が付けられたそう。
母親も45歳ということで高齢出産でした。

小学中学は、

・長岡町立阪之上尋常小学校
・旧制新潟県立長岡中学校

を卒業しました。

中学生の時に、10歳上の甥であった
高野力が病死した歳に両親から
「力に代わって武士になってくれればという」
言葉からトラウマになり、
軍人を目指すことになったそう。

1901年(明治34年)に
海軍兵学校32期に入校します。
その際、200名中なんと2番の成績だったそう。

同期には、同じく海軍大将を経験した
塩沢幸一、吉田善吾、嶋田繁太郎などがいるようです。

日露戦争中であった1904年(明治37年)に
海軍兵学校を卒業しました。

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そこからの略歴がこちら。

1904年:海軍兵学校を卒業。海軍少尉候補生。
1905年:軍艦「日進」乗組
1905年:日露戦争日本海海戦にて戦傷を負う。
1905年:任海軍少尉。
1907年:海軍砲術学校普通科学生
1907年:任海軍中尉。
1907年:海軍水雷学校普通科学生
1909年:任海軍大尉「宗谷」分隊長
1910年:37期少尉候補生訓練のため豪州へ
1910年:海軍大学校乙種学生。
1911年:海軍大学校乙種学生教程卒業
1911年:海軍砲術学校高等科学生卒業
1912年:佐世保予備艦隊参謀→軍艦「新高」砲術長
1914年:横須賀鎮守府副官兼参謀
1914年:海軍大学甲種学生
1915年:牧野忠篤子爵の口添えがあり山本家を相続
1915年:任海軍少佐。
1916年:第二艦隊参謀。
1917年:海軍省軍務局々員
1917年:海軍教育本部々員、海軍技術本部技術会議々員
1918年:結婚願届出、認可
1919年:米国駐在、ハーバード大学に留学
1919年:横浜を出港、赴任
1919年:任海軍中佐
1921年:帰国
1921年:軍艦「北上」副長
1921年:海軍大学校教官
1923年:欧米各国へ出張
1923年:任海軍大佐
1924年:横浜帰着
1924年:務艦「富士」勤務
1924年:霞ヶ浦海軍航空隊附
1924年:霞ヶ浦海軍航空隊副長
1925年:霞ヶ浦海軍航空隊副長兼教頭
1925年:米国在勤帝国大使館附武官となる
1927年:ワシントン国際無線電信会議に参加
1927年:帰国を命ぜられ、翌年3月5日帰朝
1928年:軽巡洋艦五十鈴艦長
1928年:航空母艦赤城艦長
1929年:海軍軍令部出仕、兼海軍省出仕、海軍省軍務局勤務
1929年:ロンドン軍縮会議に海軍側専門委員として参加
1929年:任海軍少将
1930年:海軍航空本部出仕
1930年:海軍航空本部技術部長、兼海軍技術会議々員
1933年:第一航空戦隊司令官
1934年:ロンドン海軍軍縮会議予備交渉の海軍側首席代表
1934年:任海軍中将
1935年:シベリア経由で帰朝
1935年:海軍航空本部長に就任
1936年:永野修身海相に引き抜かれ海軍次官に抜擢
1937年:米内光政海相のもとで次官留任
1938年:海軍航空本部長(海軍次官兼任)
1939年:連合艦隊司令長官(第一艦隊司令長官兼任)に親補
1940年:任海軍大将
1941年:及川古志郎海相に対米戦に対する作戦(真珠湾作戦)を提出
1941年:第一艦隊司令長官、高須四郎中将に替わる
1941年:太平洋戦争開戦(真珠湾攻撃は山本の発案と言われている)
1942年:勲一等加綬旭日大綬章、功二級金鵄勲章
1943年:ブーゲンビル島上空で、乗機が撃墜され戦死(海軍甲事件)
出典:Wikipedia

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略歴なのにかなり長いですが
ここでわかることは、
真珠湾攻撃が山本五十六さんの
発案と言われている
ということです。

だから、アメリカの学校の保護者も
結構知っているんですね。

普通ここまで細かく相手のことを
知ることって結構歴史を勉強して
且つ、覚えていないとわからないですよね。

途中3年間ハーバード大学にも
通っていたのは驚きですよね。

山本五十六さんは身長が低い?

調べてみると身長は160cm
体重が65kgだったそうです。

体格は立派で横幅の広く
はち切れそうな身体だったそうで
全身鋼鉄のような感じを受けるのだそう。

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さすがに海軍ともなれば
背が低くとも筋肉が凄かったのでしょう。

山本五十六さんのやってみせの意味は?

山本五十六さんを調べていると
「やってみせ」というキーワードが
でてきました。

そこで調べてみると

「やってみせ 言って聞かせて 
させてみて ほめてやらねば 人は動かじ」

という山本五十六さんの有名な格言だそう。

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その意味は

「苦しいこともあるだろう 言い度いこともあるだろう 不満なこともあるだろう 腹の立つこともあるだろう 泣き度いこともあるだろう これらをじっとこらえてゆくのが 男の修行である」

ということだそう。

これは経営者や指導者のための
格言になっているそうで
警察予備隊や自衛隊などの
教育方針としても引き継がれている言葉だそう。

かなり影響力のある方だったことがわかりますね。

山本五十六さんはの家系図や子孫は?

1915年に、五十六さんが海軍大学を修了し
海軍で佐官以上の地位が約束されたときに
牧野忠篤子爵が五十六さんの将来を見込み、
彼が断絶した山本を相続するかたちで
家名を再興させました。

ここで五十六さんが
山本を名乗るようになります。

<親>
父:高野貞吉(高野家の婿養子)
母:高野峯子(貞通の実娘)
養父:山本義路(山本帯刀)

<兄弟>
長男:高野譲(高野力)
次男:高野登
三男:高野大三
四男:高野留吉
五男:高野季八
六男:高野五十六(山本)
<姉妹>
長女:高野加壽

<妻>
妻:山本礼子
<子>
長男:山本義正
次男:山本忠夫
長女:山本澄子
次女:山本正子

<親戚>
叔父(父の妹の夫):野村貞海軍少将
相婿(妻同士が姉妹):斎藤正久 海軍大佐
出典:Wikipedia

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現在残っている子孫はわかりませんでした。

やはり昔の方は
兄弟が多いですね。

名前も古風でかっこいい名前が多いです。

まとめ

そんな山本五十六さんですが、
アメリカで話題になるくらい有名なんですね。

真珠湾=山本五十六

というイメージがついているのかもしれません。

それでは!

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